火炎と水流
―邂逅編―


#4 学校へ行きたーい!


夕方、火炎が保育園へ桃香を迎えに行くと、ワッと若い母親達に取り囲まれた。
「聞いたわよ。従兄弟さんなんですってね。かわいそうに」
「義父から虐待されるなんて、テレビのワイドショーとかではよく見るけど、まさか、こんなに身近なところであるなんてビックリ!」
「は?」
火炎には、彼女達の言っている意味がわからなかった。
「あら、隠さなくてもいいのよ。私達、大家さんからみんな聞いて知ってるんですからね」
「そうよ。遠慮しないで。あなたはまだ若いんですもの。自分を犠牲にすることないわ」
「そうそう。桃香ちゃんのこともあるし。元気出してね。わたし達、応援してるから」
と彼女達は小鳥のようにさえずりながら立ち去った。と、そこへ桃香が園長先生に連れられてやって来た。
「あ、お世話になってます」
火炎があいさつすると、園長がささやいた。
「聞きましたよ。あなたもいろいろ大変ね。でも、一人で悩んだりしないで相談してね」
「そうですよ。水流君のためにもがんばってね」
と、近くにいた保育士も近づいて来て言った。
「水流……?」
「ええ。あなたの従兄弟なんですってね。もう、その話題でもちきりなのよ。町内みんな知ってるんじゃないかしら? それでね、決めたの。みんなで協力しましょうって」
つまり、彼女達の話を総合すると、こうだった。火炎の従兄弟である水流が、義父から火傷を負わされるなどのひどい虐待を受け、助けを求めて来たため、火炎がかばって家に引き取り、いっしょに暮らすことになった、というのである。


「どういうことだ!」
火炎が怒鳴った。
「え? どういうことって?」
水流はポカンとして彼を見ていた。
「貴様、あれ程トラブルを起こすなと言ったのに、何をした?」
「何って別に。何もしてねーよ。ただ、ちょっと大家さんとそこでバッタリ会っちゃってさ、少し話しただけだよ」
「少しだと? 部屋から出たのか?」
「出たって、ホント、すぐドアの前だよ」
「貴様……!」
火炎がワナワナとしていると、水流が屈託のない顔をしてクッキーの箱を突き出した。
「なあ、これ食ってみねえ? うまいよ。あの大家さんって、ホント、いい人だよな。お菓子、こんなにもらっちゃった」
とニコニコしている。
「ふざけるな! あることないこと言いふらしやがって。誰に虐待されたって? え?」
「それは、あのおばさんが勝手に言ってただけだって」
「おまえが認めたからだろう。それでなくても、あの大家、思い込みが激しいんだから」
「そうみてーだけど。まあ、いい人じゃん。あ、桃ちゃん。これ、おいしいよ」
「人の話を聞け!」
と、火炎は水流が持っていた箱を取り上げてから言った。
「桃ちゃん。いい子だから、おててを洗ってから食べようね」

桃香が素直に洗面台へ行くと、再び火炎は向き直り、突き放すように水流に言った。
「大体、そんなに回復したんなら、サッサと出て行け! おれは、おまえの面倒までみてやる気はないからな」
「ああ。そうかい。なら、いいよ。出てけばいいんだろ? 出てけば! フンだ。おまえみてーな不良妖怪に世話になろうなんて、もとから思ってねーよ!」
と水流も言い返す。そして、すっくと立つと玄関に向かった。そして、ドアノブに手をかけようとした時、待て、と言う声がした。火炎だ。
「え? おいらのこと呼んだかい? 今更、止めたって無駄だけどよ。でも、どうしてもってんなら、考え直してやったっていいんだぜ」
と振り向く。が、火炎は、水流を無視して言った。
「桃ちゃん、おてて、ちゃんと拭かないとダメだよ」

そう言って、タオルでその小さな手を拭いてやっている。水流は、そんな二人をじっと見ていた。すると、火炎が振り向いて言った。
「何だ? まだ、いたのか? サッサと行ったらどうだ?」
と険悪な目でにらむ。
「水流、どっかへ行っちゃうの?」
と桃香が言った。
「ああ。水流は、うちの子じゃないからね。おうちに帰るんだよ」
と火炎が言った。
「水流のおうちはどこ?」
「えっと、あっちの方……」
と水流があいまいに指差す。
「どうして行っちゃうの? ずっとここにいてくれたらいいのに」
と桃香がさみしそうにつぶやいた。
「そ、そう? 桃ちゃん、おいらがいなくなるとさみしい?」
と水流がうれしそうに言って火炎を見やる。が、彼はきつい目をしてツンとしていた。水流は首をすくめて、再び桃香を見る。そして、それじゃ……と名残惜しそうにゆっくりとドアのノブに手をかけた。と、その時。

「時岩さん。帰ってる? 大家だけど」
と言うと同時に例のおばさんが、いきなりドアを開けた。あ、どうも、と玄関のところではち合わせする恰好になった水流が何となく気まずそうにあいさつした。
「どうしたの? こんなところで。お上がりなさい。カゼ引くわよ」
おばさんに促されて、水流は再び部屋に上がった。
「これね、よかったら、お夕飯のおかずにと思って」
と、彼女もツカツカと上がって、テーブルの上に持って来た皿を乗せた。大きな皿いっぱいに揚げたての天ぷらがのっていた。
「ワ! うまそう!」
水流が目を輝かせた。桃香もニコニコとうれしそうだ。
「まあ、よかった。それじゃあ、冷めないうちに、みんなで食べてね」
と、おばさんは満足そうに言った。
「いつも、すみません」
火炎が頭を下げる。桃香と水流もお礼を言った。
「いいのよ。みんなが喜んでくれるのが一番なんだから」
と言って、おばさんはニコニコした。それから、火炎にそっと耳打ちする。

「これから、いろいろ大変でしょうけど、困ったことがあったら、遠慮しないでいつでも言ってね。できるだけのことはするわ」
「ハア。それはどうも、ありがとうございます」
「ところで、もし水流君がこっちの学校に行くなら、明日にでも、わたし、校長先生とPTAの会長さんによくお願いしておくけど……」
「でも、正式な転校手続きがまだですので。書類が整いましたら、その時はお願いします」
と火炎が言った。一瞬、水流が驚いて、その顔を見た。が、火炎は淡々としている。
「これからも、いろいろご迷惑をかけることと思いますが、よろしくお願いします」
「いいのよ。気にしなくて。任せておいて。悪いようにはしないから。それじゃ、また。早くこの子達に食べさせてあげて。冷めちゃうわよ」
と言って、大家のおばさんは帰って行った。

火炎はすぐに食事の用意をして、桃香と、それから、水流にもごはんをよそってやった。
「あのさ、火炎。ホントにいいのか?」
と、やや神妙な顔をした水流が言った。めずらしくごはんにハシもつけていない。
「何がだ?」
火炎はわざとそっけなく言った。
「その、おいらがここにいてもさ」
「フン。仕方ないだろう。桃香もああ言うんじゃな」
と、面倒そうに言ったが、それを聞いた水流はうれしそうだ。
「それにさ、ホントにおいら、学校に行ける?」
はにかんだように訊く水流。火炎はハシを置いて、そんな水流をじっと見て言った。
「学校に行きたいのか?」
「ああ。おいら、一度も学校ってのに行ったことがねーんだ。人間は、みんな行くんだろ?」
「……そうだな」
火炎は少し考えながら答えた。が、水流は身を乗り出して言った。
「なら、おいらも行きてー。おいら、人間になりてーんだ」
火炎は少し驚いて少年を見た。が、やがて、目をふせて言った。
「バカなことを……」
「バカでも何でもいい! それでも、おいら、人間になりてーんだよ」
「……だが、学校は無理だな。書類や何か面倒な手続きがいるんだ」
心なしか、やや暗い顔で火炎が言うと、水流はガッカリしたように肩を落とした。

「……そうか。そうだよな。そんなうまくいく訳ねーよな」
「水流、食べないの?」
と桃香が心配そうにのぞき込む。
「ああ。食べるよ。せっかくおばさんが持って来てくれたんだもんな。いただきまーす」
と天ぷらを口に運んだ。
「でもさ、桃ちゃん。おいら、ここにいられるようになったからさ」
「ホント?」
「うん。火炎が、ずっとここにいていいってさ」
「誰がずっとって言った? あくまでも当座だ。いつか追い出してやる!」
と火炎は怒ったが、水流は心の中で思った。
(いつかってことは、今すぐじゃないってことだもんな。いつかはいつかさ。ここは案外住み心地がいいかもしれない)
「あっ! 水流。ホッペにごはんつぶ付いてるよ」
「え? どこどこ?」
と水流が舌を出してペロペロなめた。それを見て、桃香が笑い、火炎もつられて微笑した。